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考える言葉

 

環境

 
2003年08月04日(月)

 環境と自分との関係について考えてみたい。人間はだれでも自分と深くかかわっているはずの環境を持ち、その中で生きている。
 私は長崎という町でずっと住んでいる。日本でも有数の観光地だから、他所から多くの人が訪れて南山手のグラバー邸や雲仙・島原、ハウステンボスなど時間を惜しむかのように観て廻り、港の風景や夜景に心からの感動を惜しまない。
 訪れた人と、チャンポンや皿うどん、卓袱といった料理を共にしながら、長崎の素晴しさについて熱く語ったりして、感動的な時間を共有しているものの、彼らの感動につられているに過ぎない。地元の人間にとって、普段、話題にもしない至極当然の風景であり、いつでも食べようと思えば、口にすることができる食べ物であり、他所の人が感じるほどの有難味をそれらに感じているわけではないだろう。
 名所旧跡やそれらに関する情報も他所の人のほうが良く調べており、知っているのに驚かされることもある。
「いつでも行ける、いつでも手に入る」、だから無関心で、無感動。関心を持たないから価値を見いだせないし、見いだそうとはしない。ここに、私たちが日常的に陥りやすい罠がないだろうか。
ベテラン社員にとって無感動な職場も、新入社員にとってはいつもフレッシュな感じがして、刺激的なのはなぜだろう。
他の人からみると、恵まれた環境だと羨ましがられるのに、その環境を大切にしようとしない。そんな自分の環境って、いったい何なんだろかと疑問に思うことがある。いや、疑問にすら感じず、無感動にやり過ごしている自分がいる。
怠惰なるゆえのマンネリなのか・・・、慢心なるがゆえの鈍感さなのか・・・、忘恩なるがゆえの億劫さなのか・・・、刹那的であるゆえの無関心さなのか・・・・・。
いずれにしても、人間はもっと感動的に生きないとエネルギーが段々小さくなるような気がする。感動的に生きるということは、自らの環境に積極的に働きかけながら生きて行くということではないだろうか。
私たちの環境は、本来、私たちが想像している以上に躍動的であり、つねに変化している。固定的なものは何一つ存在しない。それゆえに、誰にとっても自由自在なはずである。
自分にとって八方ふさがりの環境って、それは自分自身がつくりだした自分の心の状態である。自らが深くかかわっている環境の中にこそ、自らの活路があることをいつも忘れずに生きたいと考える。