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考える言葉

 

「為すこと」

 
2003年09月08日(月)

 メールをやっていると、毎日、自分が知り得ていない情報が入ってくる。有難いことだと思いつつ、知らない事柄の多さに驚かされる。
 しかし、ほとんどの情報は自らの情報ボックスの中にしまい込まれ、たんすの肥やし同然の運命を辿る。そのことに気付き、ときどき申し訳ないなと思うのであるが、自らの関心の外に放り出してしまう。
 発信者は、無駄な情報を流す意図はない。むしろ、相手にとって有益だと思うからこそ発信をしているである。(だから、発信不要の通知をすれば、その後一切流れてこない)
 考えてみると、情報や知識というものは自分の外で創られた価値で、自分が創りだした価値ではない。いわば、素材あるいは道具に過ぎないのである。だから、「この素材や道具をつかって何を創りだそうか」という発想なり、思いがないかぎり、生かされないまま、死んでしまうのは当然であろう。
 仕事においても同じようなことが言える。為すべきことを為していないので、注意をすると、「分かっています!」という。そうは言わないまでも、そのような顔をしている。
 「分かっていない」ことを注意されているのではなく、「為していない」ことを注意されているにもかかわらず、そのことに気付かないのである。
 「分かっている」というのは、単に素材や道具を外から仕入れて在庫にしているだけである。「為す」とは、それらをつかって自らの付加価値を生み出す発想や思いや意思が明確であるということである。
 このように考えると、「分かっている」ということはコストを発生させただけに過ぎない。このコストを回収するためには、「為す」ことによって自らの成果を出せるようにならなければならない。
 「為す」ためには、先ず、情報(素材や道具)をどのように加工すべきなのかを認識する必要がある(目的と目標の設定)。さらに、それらを遂行できるだけの力が自分にあるのかどうかを見極めなければならない(自己査定)。そして、それらの判断は独りよがりになっていないか、つまり、組織の目指すべき方向性とのチェックができてこそ、はじめて成果を生み出すのである。
 私たちは、インターネットの普及などで、容易に情報を手に入れることができるようになった。それゆえに、「分かっていること」と「為すこと」の違いをしっかりと認識しておかねばならない。
 「為す」ためには、情報以外に、それを生かす見識と度量が磨かれなければならないと考える。