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考える言葉

 

傍観者

 
2004年02月16日(月)

 自分の力ではどうしようもないという情況に追い込まれると、人間は傍観者に為らざるを得ないのだろうか。
 「将軍の日」(一日で中期5ヶ年計画を策定するセミナー)に初めて参加された経営者の方から聞かされた話であるが、「変な言い方かもしれないが、傍観者のように冷静な自分がいる」という。
 資金繰りがひっ迫し、綱渡りのような日々をずっと送っており、振り出した手形の期日が近づくと眠れない日がつづく。自分や家族の生活はどうなるのか、保証人になってもらった親戚や知人の顔が浮かぶ、債権者へふりかかる負担の重さ、そんなことを考えると神経がたかぶって眠れるはずがない。
 思考はいつしか堂々巡りをはじめ、アリ地獄のような状況で時間だけがいたずらに過ぎていく。にもかかわらず、傍観者の如く冷静な自分が片方でいるという。
 その会社の財務状況を診ると、確かに厳しい状況である。かなり以前から粉飾を繰り返しており、実体のない資産をオフバランスすると相当の債務超過であり、収益性の悪化も進んでいる。
 粉飾の恐ろしさは、苦しい現実から逃れるために「うそ」をつき、いつしか“たこの足”のように自分を追いつめ、自分を見失ってしまうことにある。これでは、傍観者にならざるをえない。
 その人の情況をみていると、「もう手遅れかな?」と思いつつ、いくつかの提案をしてみたが、案の定、彼の口から出るのは、以前に“考える言葉”シリーズ(03-46)で紹介した「八つの敗者の言葉」、そのままそっくりである。
 傍観者としての自分は、いま、始まったわけではないと思う。もうずっと以前から、人のアドバイスに対して「分かっている。だがしかし・・・・・」と中途半端な思考と行動をくり返し、他人のせいにばかりしてきたのではないだろうか。
 危機を認識していながら、自らの責任で行動を起こさない人あるいは起こせない人は、すべて傍観者であるとみるべきであろう。認識した危機的現実を変える主体は、あくまでも自分自身に他ならない。なぜならば、向き合っている現実に対する危機意識は、自分自身の心の捉え方であり、情況に過ぎないからである。
 危機感は、人によって相当の温度差がある。組織における究極の危機管理は、トップリーダーしかなし得ない仕事である。
 そのトップが、ヴィジョンなき傍観者に陥ったならば、その組織は崩壊せざるを得ないと考える。