2004年03月22日(月)
タクシーの中での、信号待ち。携帯電話をしながら歩道を渡っている人が、驚くほど目に付く今日この頃だ。
タクシーの運転手も、そう感じたのか「便利か、ですね。赤電話はもう、見かけんですね・・・」とつぶやく。
私は、この光景を便利だという感覚で受けとめていなかったが、確かに便利な世の中である。携帯電話だけではない。
インターネット、コンビニエンス・ストアなど、今や便利さの追求は、企業にとってビジネスチャンスであると同時に、特に若い世代にとっては、一つの文化でもあるようだ。
要するに、選択の価値基準に“コンビニエンス(便利さ)”、つまり「便利に生きること」があるようだ。
これらのサービスを、「必要か?それは、何故?」と問われると、多くの人が「必要である」、「それは、便利だから・・・」と答えるであろう。
しかし、ほんの10年あるいは15年前まで、携帯電話を必要不可欠だと思っていた人がどれほどいただろうか?また、それがなかったことを不便だと何人の人が感じていただろうか?
このように考えると、“便利さ”とは外部から与えられた価値であって、自らの必要から生まれたものではないといえよう。
そこで、大切なことは「便利に生きること」の意味である。“便利”とは、自分にとって都合がよいことであり、面倒な手間を省いてもらえることをいう。
しかし、本当に必要とあらば、どんなに時間をかけてでも、何とかしようとするだろう。
私たちが便利というのは、効率的に物事を考え、時間の無駄を省くこと、要するにスピード化である。つまり、“便利さ”とは時間をどうように遣うかという手段の問題であり、目的の追求ではない。
私たちは、“便利さ”という手段の選択にばかりに気を取られて、その先にある目的を見失ってしまってはいないだろうか。私たちは、便利さによって得られた“時間”を何に遣っているのであろうか?
本来、手段の選択にしかすぎない“便利さ”を、生きる価値基準にしてしまった私たちは、もっと大切な何かを忘れているのではないか。
“便利”だとか“不便”だとかを議論する前に、「何のために?」を問うことをやらなければならない。
そうでないと、時間や手間を省くことばかりが意識的に先行し、手段の目的化現象が起きるであろう。
改めて、いう。「“便利さ”は、手段であって目的ではない」