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考える言葉

 

自己責任

 
2004年04月26日(月)

 イラクの人質事件は、全員解放という安堵すべき結末であったが、さまざまな教訓を残した。その中でも、“自己責任論”は賛否両論あり、少し考えてみたい。
 マスコミから流れる人質家族の「自衛隊の撤退要求や政府への批判」に対して多少違和感を覚えていたら、今度は政府関係者から続々と人質になった人々の“自己責任論”が吹き出してきた。その延長線上にある小泉発言には、一瞬、「これが、首相が言うべき発言か?」と耳を疑った。
 「日本国民は、自らの命を惜しまず、人道支援活動をされた日本人がいることを誇りに思うべきだ」というパウエル長官のコメントは、国際社会への貢献に対する使命観の相違を際立たせた。
 危険なイラクで活動する判断の責任、拘束された責任、それらが自分の責任であることを彼らは認識していたはずだ。にもかかわらず、政府が彼らの自己責任を口にするならば、自らの自衛隊派遣が与えた影響こそ、自らに問うべきであろう。
 私たちが自己の責任について考えるとき大切なことは、「単独で背負える責任は、一切存在しない」という事実認識をもてているかどうかである。つまり、私たちは、関わり合いの中で生きている限り、すべての責任は“共有されている”のである。
 その前提で考えるとき、自己の選択において問われる責任の内容は、次の二点でなかろうか。
 ① 危険を承知で、チャレンジしようとするその選択の「目的」は何であったか?誰にでも共感・共鳴される内容であるか? 
 ② 「目的」を遂行するにあたって背負うべきリスクは、十分に事前計算がなされているかどうか?
 この点については、企業経営において全く同じことがいえる。経営はすべて自己責任であることはいうまでもない。しかし、倒産した時の責任は、共有せざるを得ないであろう。組織内部の個人の責任においても同じである。責任は一人では決して負えないのである。
 自己責任を口にして勝手な行動をする人間の“無責任さ”は、この世の中の構造に対しての無知から生じる。
 私たちは「責任を共有している」という自覚から生じた自己責任でないと、「目的とその実現のための手段」を考える、その思考への厳しさは、いつまでも生まれてこないであろう。
 お互いに身勝手な“自己責任論”は、ナンセンスである。