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考える言葉

 

謙虚

 
2019年10月15日(火)

「実るほど頭を垂れる稲穂かな」・・・。
 
小さい頃から何度となく教えられた諺の一つである。
功成り名を成した人たちの中には、人生の教訓や座右の銘としている人も多いという。
改めていうまでもないが、意味は「立派な人ほど“謙虚”である」ということ。人間の性である慢心や傲慢に対する戒めとして、この言葉を受け止めて、今でも習い性として、そう心がけて生きてきているような気がする。
 
 なぜ、この諺を思い返したかというと、最近ある本を読んでいて、次のような問いかけに出逢ったからだ。
 「自分が知るなかでいちばん“謙虚”な人を描写してみよう」と・・・。
 
 「いちばん“謙虚”な人?」 この虚を突かれたような問いかけに対して、一瞬「誰だろう?」と戸惑いつつ、真っ先に思い浮かんだのが、松下幸之助さんである。氏は、指導者の条件として多々あるなかでも、「“謙虚”と感謝を知る心を培うこと」の大切さを強調しているのではないだろうか。
 
 次に思い浮かんだのは、伝教大師最澄・・・。
なぜ最澄なのかというと、『大愚のすすめ』(山田恵諦 著)という本の中にあった、「愚の中の極愚」という最澄の言葉を思い出したからである。「自分を最低の位置に置いて世界を眺めると、世の中のものすべてが師になる」という意味だったと思う。
 
 さて、二人の名前が思い浮かんだまではいいのだが、書物で知り得ている以上の具体的なイメージや人物像が描写できない・・・。会ったこともない人物であるから肌感覚での具体的な知見に及ばないのである。当然といえば、当然であるが・・・。
 
 そこでもっと身近な人(友人・知人等)に意識を向けると、どうだろう? 驚いたことに、
思い浮かぶ人たちの多くが、実に“謙虚”に振る舞っている様子をイメージすることができたのだ。
 
 では、「その中で誰がいちばん“謙虚”なのか・・・。また、その人の人物像をどう描写することができるのか・・・」 考えても、曖昧模糊としており、なかなか絞り込むことができないでいる自分に気づく。
 
 これは、私自身の怠慢だと気づく。「“謙虚”であることは大切なことだ」と言いつつ、“謙虚”な振る舞いをしている人から、日頃学ぶことを怠っていた証拠ではないか・・・。
「この人はなぜ、こんなに“謙虚”に振る舞えるのだろうか?」「この人は“謙虚”な振る舞いによって、何を得て、何を与えているのであろうか?」
 
 もっと、人間として“謙虚”であることの意味と価値を深く考えてみようと思う。
 
”考える言葉”シリーズ(19‐37)