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考える言葉

 

見識を問う

 
2000年03月13日(月)

 新潟県警の不祥事については、マスコミ等で何度となく報道されているので改めて言うまでもないが、自分がその立場にいたらどう対処していただろうかと思うと大変恐ろしい気がする。

 小渕首相は党首討論でこの事件に触れ、「9年2ヶ月ぶりに事件が明らかになった時に、県警本部長が監察と酒を飲み、マージャンをしていたことが発覚したのは、俗っぽく言えば“運が悪かった”ということかも知れない」と述べている。
これに対し、鳩山氏は「この事件の本質は責任逃れのために、事実をウソで塗り固めたことだ」と責めている。

 私は、最近多発する不祥事の原因について、根っこは同じだと考えている。端的に言うと、自らの“見識の無さ”が引き起こしている必然的不祥事である。
しかし、当事者にその認識がまるでない。それこそ俗っぽく言えば「運悪く、まき込まれた」と、だからウソをついてでも責任逃れをしようとする。

今回の事件でいうと、監察局長に“卓抜した見識”が備わっていたならば、温泉宿での接待など起こり得なかったし、県警本部長においても然りである。
その場に関わった人間の“見識の無さ”がその場のムードを作り、そしてムードに流された必然の結果である。

 今時代が大きく動こうとしている中で、様々な形で“自己責任”が叫ばれている。
私は、言葉を換えていうと、“見識が問われる時代”ではないかと考える。自分の人生に対して、自分の職業(仕事)に対して、しっかりとした目的意識を持ち得ているかどうか。また、その目的を描く“見識の高さ”は如何なものか。

 会社が良くなるのも悪くなるのも「全て、原因は自分の中にある」という考え方に徹し切れているかどうか。見識を高めるためには非常に大切な考え方である。
自分の人生を主体的に、自発的に、自主的に生きている人でないと“見識”など身につく筈がないのである。

 卓抜な見識を有している人を観ていると腹がすわっているのが分る。物事の方向性が見えているのであろう。人に任せても、自分で責任をとる覚悟ができている。
あらゆる不祥事、もし自分がその当事者であったとしたら、どの様に対処していたであろうかと問いかけてみると大変勉強になる。結果の必然性が明白になる。
「動機が良くて、プロセスも良い。しかし、結果が悪かった」などというケースは有り得ないのである。