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考える言葉

 

失敗に学ぶパート2

 
2000年08月07日(月)

 前回、「失敗から何を学ぶかが人生の本質ではないか」という問題について考えてみたが、そのパート2を思考してみたい。
「失敗から学ぶ」ことの要諦は、その経験をその後の人生に生かし、同じ過ちを2度と繰り返さないことにあると思う。しかしながら、これが意外と難しいのである。
人が犯す過ちには一定の傾向があるという。同じ人が酒や女や博打で同じような失敗を繰り返すといった類。仕事の失敗も同じパターンが、多く見受けられる。
だとすれば、人はなぜ同じ過ち(失敗)を繰り返すのか、その原因をしっかりと考えてみる必要がある。
私が思うに、人は誰でもその人特有の“思考と行動のパターン”を持って生きているのではないか。そして、その思考と行動のパターンは、その人が身に付けている“価値観”によって支配されているといえる。
価値観とは、“思考の枠組み”のことであり、その人が信じて、身に付けている“人生の尺度(物差し)”のことである。
自らの価値観(物差し)が間違ってないかどうか、時代遅れになってないかどうか、環境の変化に適応できなくなってないかどうか。常にその検証を怠らないことが大切である。
その価値観の検証をしないで、失敗に対する反省を重ねても真の原因には到達できないと考える。だから、失敗を何度も繰り返す“愚”を重ねるのである。
そして、自らの価値観の誤りに気付くための方法は一つ。それは、人の話をどれだけ“素直”に聞けるかどうかである。
孔子は、「人がこの世の中で生きていけるのは、“素直さ”によってである」(経営人間学講座)と、人生を観切っている。
人間が「失敗に学ぶ」ことができるとすれば、その人の“素直さ”においてではないかと、私も考える。
私は、最近、採用面談時に必ず次の質問をするようにしている。
「貴方が尊敬する人は誰ですか?」
“尊敬する人”あるいは“人生の師”とは、自分が素直になれる人でもある。もしも、そのような人がいないとすれば、その人は失敗を何度も繰り返す“危ない人”ではないかと危惧する。
仰げば尊し、我が師の恩……。「失敗に学ぶ」ためには、教育の根本を再考することから始めなければならないと思う。