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考える言葉

 

危機感

 
2001年10月01日(月)

 経営者の悩みの一つに、危機的状況に対する認識のおいて、「自分と幹部あるいは社員とのあいだで、かなり“温度差”がある」という話を耳にする。
 「オイ、あまり社長に近づかないほうがいいぞ。ナンカよう分からんけど、神経ピリピリなんだよな・・・」。
 それこそ耳にすれば、「誰のせいだと思ってんだ、おまえ達の危機感のなさに苛ついてんだ!」と思わず、叫びたくなる気分である。
 “危機感の共有”をバネして、一気に変わろうと思っているのに、そのバネが伸び切ってしまっていては、まさに危機的状況である。
 「危機を危機」として認識できない、その温度差は何が原因で引き起こされているのだろうか。
 私は、それぞれの現状認識に対する“甘え・無知・慢心”ではないかと考える。そして、そのような状況に陥っている根本的要因は、仕事を“個人プレー”としてしか捉えていない、その人の価値観ではないだろうか。
 このような人は、自分が帰属している“組織の目的”を共有し得ていない人だから、自分なりの仕事の成果に甘んじ、自分の都合を優先して仕事をしていることが多い。
 勿論、トップに責任がある。しかし、いずれにしてもこのような組織風土になってしまった企業において、危機感の共有はあり得ない。残念ながら、行き着くところまで行き着かないと収まりがつかないのだろう。
 私は、社員と危機感を共有したいと願うならば、「仕事とは何か」という本質的な問題から考えなければならないと思う。
 「仕事」とは、本来、社会の必要から生じたものであり、“奉仕の心”こそ、その本質である。企業とはそうした社会のニーズに貢献することを目的として組織化された場であり、個人の都合を優先する場ではない。
 つまり、個人の限界を超えて、より大きな社会的貢献をしたいという意欲こそが、企業という組織を創る根本的モチベーションとしてあらねばならないと考える。
 仕事に対して、このような明確な理念を有し、それを実践している企業を観ると、組織の人間一人ひとりが、組織人としての自覚を持ち、“組織プレー”を何よりも優先していることが見てとれる。
 “組織プレー”に徹する姿勢こそ、“危機感の共有”を生み出す源ではないか。
 ダメな企業ほど、内部の危機意識が低く、“甘えと無知と慢心”が充満していることに気付かされることが多い。