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考える言葉

 

ムネオ疑惑

 
2002年03月18日(月)

 次から次へと明らかになる疑惑の多さに「疑惑のデパート」とか「疑惑の総合商社」などと揶揄された“ムネオ疑惑”は、またしても、権力の常套手段であるトカゲのしっぽ切りで、一件落着となるのか・・・・・。
 それにしても、離党を表明した、あの鈴木宗男氏の涙は何を意味しているのだろうか。とても、所業の数々を自ら悔い改め、“懺悔の涙”を流したのだとは思えない。「権力を手にした者なら、誰でもやっていることなのに、何故自分だけが責めを負わなければならないのか」残念ながら、そんな悔し涙に違いない。
 時代のパラダイムが大きく動いているのに、「私は、昔ながらの政治家ですから・・・」と訳の分からぬ釈明で、まさか疑惑を払拭できると思ってはなかっただろうが、政治家の時代感覚の欠如に、今日的日本の低迷の一因があるように思えてならない。
 もっと驚かされるのは、政治献金の多さでも分かるが、「おまえがいい目を見ているのは、誰様のお陰だと思っているのか」という思い上がりと傲慢さ。これでは、自らを省みる鏡など、到底、持ち得るはずがない。
 権力を持つと、人間は謙虚さを失ってしまう。自分を支えてくれている多くのものの力を感じきれなくなる。自分が一人で立っていると錯覚をしてしまうのである。
 「自分が倒れずに済むのは、何ものかに支えられているからである。支えてくれているものを“恩”という。支えてくれているものを知らない者を“恩知らず”という」(経営人間学講座)。
 “ムネオ疑惑”を他人事のように批判するのは容易いことである。しかし、忘恩の心の反映であるとするならば、私たち一人ひとりの問題として真剣に考えなければ、大変なことになるのではないか。
 企業がつぶれるのも、私たちの人生が上手くいかないのも、決して外部に原因があるのではなく、自らの心のあり様に問題がある。
 「知恩・報恩」という言葉があるが、今私たちにとって大切なことは、日本人の心の根底に眠る、日本人の文化と心を培ってきた“恩の思想”に目覚めることではないだろうか。
 新しい時代を切り開くのに、どうしても求められる“志の高さ”とは、「恩を知り、恩に報いる心の豊かさ」ではないだろうか。
 歌を忘れたカナリヤではないが、“恩を忘れた日本人”の縮図が“ムネオ疑惑”の本質だと、私は考える。