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考える言葉

 

我慢

 
2002年04月08日(月)

 私たち日本人が普段何気なく使っている言葉は、欧米人が聖書やシェークスピアなどの古典から引用していることが多いように、仏教の様々な経典から多く引用されているのに気付かされる。
 しかも、ある本を読んで得た知識であるが、長い年月を経て日常的に使われているうちに転用され、本来の意味が失われて、全く趣が異なる言葉として使われているものもあり、驚かされる。
 例えば、「無学」(もはや学ぶべきことが無い、悟りの境地)、「分別」(分けることにより理解し得たと考える妄想)、「我慢」(自分を過信し、うぬぼれること)などは、普段使っているケースの逆の意味になる。
 中でも、何かと我慢することが多い今日なので、少し“我慢”について考えてみたい。
 普段、「我慢強い」とか「我慢しなさい」などと使うことが多いが、この場合の“我慢”は、「忍耐とか辛抱」という意味である。
 しかし、仏教用語で“我”とは自分への執着であり、“慢”とは自他との比較によって生じる慢心であるという。つまり、“我慢”には本来、「我執とか高慢・傲慢」などの意味であることを、「ガマンし合いながら生きている」我々は、お互いに認識しておくべきであろう。
 小さい頃よく“我慢比べ”をして遊んだものだが、よくよく考えてみると小さい時から“我”の張り合いの訓練をしていたようなものだ。今思うと、くだらないことに意地をはって、けっこう無鉄砲なことをしていたような気がして、冷や汗ものだ。
 ある経営者が「社長ってモンは、我慢と忍耐の連続で身体に良くない」と言っていたが、自分の思うように動かない社員をはじめ周りの環境への苛立ちをじっと耐え忍ぶ毎日のことを嘆いているようだ。
 そんなに“我慢”をしなくても、それこそ自分の心の有り様を少し変えてみると、周りの環境が全然違って見えてくるに違いないのだが・・・・・。やっぱり、“我”と“慢”で凝り固まってしまうと、そうはいかないらしい。
 (「無学」の域に達すれば、「無分別」で居れるだろうから、「我慢」もなくなり、万事が上手く行くということになる。)
 兎に角、いままでの常識では分かりにくい文章となったが、常識に捉われていると真理を見失ってしまう時代である。
まさに、身につけた常識を捨てきれないことこそ、“我慢”の極みである。