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考える言葉

 

他人事

 
2002年05月06日(月)

「日本経済は、なぜ再浮上できないのか?」ある人との雑談・・・。本屋さんに行くと、この手の本はたくさん並んでいるので様々な要因は一応、頭に浮かぶ。
利権への執着やリーダー不在による構造改革の遅れ、官主導の機能不全、デフレによる経済の悪循環、中国の台頭、先行き不安からの消費の低迷、悲観論の蔓延や自信喪失etc.挙げたら切りがない。
しかし、このような事態に陥った源流は、変化への対応認識の甘さであり、もっと問題を掘り下げるならば、「日本人の主体性の欠如、自立できない精神構造にある」と言えないだろうか。
日本経済の凋落の直接的な要因は、バブルの崩壊であり、その後の対応のまずさにあったのだが、日本経済が一人勝ちをしていた絶頂期に真の原因を増幅させていたと言えよう。
その頃、アメリカ経済は長期低迷し、ソ連は国が崩壊するという事態に見舞われていた。世界が大きな転機を迎えていたのに、日本にとっては“他人事のように”受け止めることしかできなかったのである。つまり、このような事態を自分の問題として捉えることができなかったことに、日本低迷の真の原因があるし、また再浮上できない理由でもある。
「他人に無関心の人間が、どうして自分に関心を持てるだろうか」という言葉があるが、人間は他人の存在をしっかりと認識できてこそ、自分というものが見えてくるのである。
図体ばかり大きくなったけど、自分というものを置き去りにしてきた“ツケ”を払わされていると考えたほうが本質を見逃さないだろう。要するに、アメリカの傘に依存して自分の頭で何も考えようとしなかった。敗戦と占領政策によって生じたトラウマ(心の傷)と向き合うことを避けてきた。その結果、日本には“主体性あるいは自立性”を発揮する土壌が、いまだできていないのではないだろうか。
「日本人とは何か」、「自分とは何か」をしっかり考えないと、解決の糸口を見出すことはできても、一歩も前に踏み出すことはできないのではないだろうか。
個々の企業においても全く同じことが言える。社内外で起きている問題を他人事のようにしか受け止めることができない組織風土を壊さないかぎり、体力は徐々に弱まり、二度と浮上できなくなる可能性がある。
私たちはいつも自己の存在の価値を問い続けるべきだし、そのためには他人との関わりの意味の深さを知るべきだと考える。