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考える言葉

 

価値観喪失症

 
2002年05月13日(月)

 未だ真相は定かではないが、中国・瀋陽の日本総領事館で、憂国の情を禁じえないような事件がおきた。
痛ましい事件の状況がTVで何度となく放映されたが、その場に居合わせた館員らは、ただ茫然自失して、臨機応変な対応がまったくできなかったようだ。
「あのような事態は想定されておらず、マニュアルがなかったからだ。危機管理の無さを露呈した」と、ある評論家が語っていたが、日本の外務省は、マニュアルがなければ何も判断できないのかと言いたい。
それにしても、一連のスキャンダルもあり、外務省の不甲斐なさだけが浮き彫りになっているが、もっと根は深く、悲しいことであるが現在における日本という国の縮図のように思えてならない。つまり、政官財を問わず、今の日本にはあまりにも唖然とさせられる事件が多すぎる。
日本人のこころは、“価値観喪失症”という厄介な病気を患ってしまったとしか言いようがない。厄介なことに、この病気には自覚症状がないのである。
しかし、他から観察すると次のような症状を診ることができるので、他人を観て自らを省みることはできる。
(1)目先のことが気になって、明日のことを考えきれない
(2)自分のことしか考えてないくせに、自分を粗末にしている
(3)責任観念が弱く、他人の所為にしたり、事なかれ主義におちいったりする
(4)枝葉末節にとらわれて、根本をみることができない
(5)ものごとの優先順位を決めきれない
(6)自分でものごとの判断ができず、すぐマニュアルに依存する
(7)「何のために」という目的思考ができない
(8)人の話を聞かないくせに、他からの批判には過敏に反応する
(9)すこし上手くいくと、すぐ慢心におちいる
(10)人との信頼関係を築けないし、自分の位置付けができない
要するに、自らの価値観の本質を見失ってしまい、環境(社会、会社、家庭など)と自分をどのように結び付けていけばよいのかが、分からなくなっているといえよう。
厄介な病気であるが、「出逢った人は自分である」(経営人間学)という言葉の意味をかみしめ、「自己の存在を支えているものの本質は何か?」を問い続けることである。
そして、今日本に求められているのは、日本人としてのアイデンティティであり、主体性・自主性の発揮である。