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考える言葉

 

光陰

 
2002年05月27日(月)

「少年老い易く、学成り難し」、小さい頃からよく耳にした論語の言葉である。人生も半ば過ぎると、実感として分かる。(論語を読む人は皆そういうのだが・・・)
 めくり読みをしていた本の中で目についたのだが、妙に気になり、考えてみた。私は、一瞬この言葉が実感として分かるようになったと思ったのだが、本当にそうだろうか。正確にいうと、子供の頃に比べると歳をとった分だけ、そう思えたに過ぎないのではないだろうか。
 子供の頃からとすると、かなり残り少なくなったはずの“時間の希少価値”から考えてみると、時間を惜しんで“為すべきこと”に専念する覚悟の程は、どれほど確かなものに進歩したといえるのであろうか。
 一日を振り返ってみると、朝から目が覚めたにもかかわらず、幾ばくかの惰眠。出勤までの緩慢な身支度。出社してから仕事に取りかかるまでのウォーミングアップ。いざ仕事にかかってからの書類探し。アポの拙さが仕事のキャンセル。ケアレスミスによる仕事のやり直し。生産性の乏しい残業時間。帰宅して、TVの前でボーッと過ごす無駄な時間等など・・・。一年を通してみると、人様にはとても恥ずかしくて公表できないような無為な時間が他にも山ほどにある。
 下手すると、こんなことを繰り返しながら一生を終えてしまいかねないのが人間なのである。
 どうだろうか。“為すべきこと”ができなかった口実に、「時間がなかった」とか「忙しかった」という前に、時間に対する自らの覚悟を確かめてみようではないか。
 「一寸の光陰を軽んじてはならない」という教えがあるが、どれほどに寸暇を惜しんで、自分の“為すべきこと”に専念していると胸を張っていえるのだろうか。本当に寸暇を惜しんで専念したにもかかわらず、自ら掲げた目標は達成できなかったのだろうか。このように深く考えてみると、決して満足できる時間の使い方しているとはいえない。
 人間の心とは度し難いもので、仕事に身はおいているものの、“心そこにあらず”の状態だってある。そんな状態で、仕事の成果が期待できる訳がない。心の作業こそ、唯一時間を有効に使う手段ではないだろうか。
 自らの志(目的)に心を定め、専念することである。自分の心を欺くから、怠惰な時間が増える。そして、忙しいからといって、為すべきことを投げ出してしまう。これでは、物事はいつまでたっても成就できない。
 「時間がない」と焦らずともよい。「光陰とは心一つの置きどころ」ではないだろうか。