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考える言葉

 

共感

 
2002年08月19日(月)

夏の風物詩といえば、いろいろなものが思い浮かぶ。
例えば、夏の甲子園、海水浴、花火大会、夏祭り、お盆、かき氷、ところてん、スイカ、トマト、きゅうり、浴衣、うちわ、せみ、カブトムシ、風鈴、麦わら帽子、あさがお、ひまわり、終戦(原爆)記念日、精霊流し、怪談もの・・・・・。
徒然と、頭に浮かんだものを書き連ねてみたが、何とか一様に共感してもらえるのではないだろうか。
しかし、もう一歩踏み込んで対話を重ねてみると、一つひとつの言葉に様々な思いの違いが浮きぼりにされるのではなかろうか。
「夏の風物詩といえば・・・」という一般的な質問に反応して、一様に共感したのであって、「あなたにとって思い出の深い・・・」と限定されれば、それはもう、途端に一様な共感というわけには行かなくなる。
“共感”とは、お互いの自己イメージが同化することだと考えるが、共感にはレベルがありそうだ。
大衆化された情報に知識的に共感するのと、ある固有の情報に体験的に共感するのでは、全然共感度のレベルが違う。前者は表層的で、対話が続かないが、後者は深層的で、対話が重なっていき、より共感度が増してくる。
夏になると、近くの農家からリヤ・カーでスイカを売りにくる。それを井戸水で冷やし、縁側で兄弟と最後の一つに睨みをきかせながら食べる。もちろん、種は巧みに庭へ吹き出すのである。だから、レストランや料亭の食後のデザートに出てくるスイカは、たとえ上品で美味くても、私のイメージするスイカではない。だから、話題にもならず、腹の中に収められてしまう。
多くの現代人は、どうも大衆化された情報のなかで画一化され、表層的な共感のなかで生きているのではないだろうか。経済的合理性ばかりを追求すると、モノ中心の思考に陥る。モノ中心の特徴は、いくらでもコピーができる画一化にある。それに人間が振りまわされると、表層的にならざるを得ない。
人間の本質は、多様性にあるのではないか。画一化を特徴とするモノに支配され、柔軟性を損なっているところに今日的なジレンマがあるのではないだろうか。
21世紀のビジネスチャンスは、どうもこの当たりに潜んでいるのではないか。つまり、多様性を認識しながら、深層的な共感をどのようにして創造していくのかだろう。
そのためには、お互いのイメージを交換し合える“場”を共有する機会を積極的につくることである。
共感によって生まれる価値の創造こそ、オリジナル性があり、感動を生む。