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考える言葉

 

執着

 
2002年09月02日(月)

 どうしようもない状況に追い込まれたとき、自分がいかに様々な“執着”のなかで生きているかに、気付かされることがある。
 業績が悪化し、資金が廻らない・・・。初めて事業計画の必要性を感じ、自社の現実と向き合ってみると、様々な問題が浮き彫りになってくる。当然のことながら、かなり大胆な外科手術を施さないと、事態がさらに悪化するのは財務データからも明らかである。
 しかし、である。いざ、切除しようとすると、なんと様々な抵抗勢力が生まれることか。それぞれに、それぞれの言い分があるのである。どんなに客観的なデータを示し、切除の必要性を説こうと、「今のままが、好ましい」という。中には、「分かるけど、これは、必要悪だ」と平然という人もでてくる。それから、「分かっちゃいるけど、やめられない」という感性的な悩みもある。
 とにかく、いままで自分がやってきたことへの“執着”たるや、凄まじいものがある。
 “執着”とは、思い込み、とらわれの状態をいう。それに気付かずに、あるいは気付いてはいるが、離れ切れない心の状態であり、これが事態を悪化させた根本原因であることを知らされても、自分は変わりたくないと抵抗する。
 今、多くの組織あるいは個人が陥っている“執着”は、過去の成功体験(既得権)への執着ではないだろうか。
 激変する時代のパラダイム(価値観)は、私たちに過去のパラダイムを捨て、「自己革新しなさい」と警鐘を鳴らし続けているのにもかかわらずで、ある。
 「執着から離れよ、執着を捨てよ」、こんな言葉を若いときに、よく先輩から聞かされたことを思い出す。
 今になってやっと、その言葉の真の意味がわかってきたように思う。
「自分が知らず知らずに身につけてきた価値観にとらわれて、世間を見ていても何も真実は見えないぞ」ということではないだろうか。
 自分が“執着”しているものは、すべて、自分の価値観によって選択され、支配されているのである。だから、自らの価値観を捨てない限り、“執着”しているものから逃れることはできないのが人間である。
 組織も個人も同じ。逆境によって潰されるのではなく、自らが“執着”しているものによっては滅びるのである。
 変化の時代に過去の栄光に“執着”していると、未来を失ってしまうことに気付かねばならないと考える。