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考える言葉

 

架け橋

 
2003年10月13日(月)

 ある社長から解雇の話を聞いて、驚いた。なぜ驚いたかというと、私のところで最近起こったケースとあまりにも似ていたからである。
 数年前から大切な知人の子息を、「一人前にして欲しい・・・」と託されて預かっていたという。
解雇の直接的な理由は、欠勤が目立つことにあるが、愚痴が多いためか上司の信頼が薄く、責任ある仕事が任せられないことによる悪循環ではなかったかと考える。 
何度となく発憤させようと、「親の縁があってこそ、今の職場があることに気付けば、感謝の気持ちも生まれるし、成長して恩返しの一つや二つやってやろうじゃないかと気概が出てくるよ」と話すと、本人は涙ポロポロと流して、自己の不甲斐なさを悔やんでみるが、その気持ちが持続しなかったという。
解雇通知に対しても現実感がなく、諦めがはやい。一念発起の嘆願でもするかと多少の期待もあったが、その日の夕方には「仕事の引継ぎも、さほどないので今日付けで・・・・・」という。
人材の採用と育成は、経営における永遠の課題の一つであるが、今日的な変革の時代においては、特に重要かつ困難なテーマであるといえよう。
客観的にどんなに恵まれた環境(職場)にあろうと、その環境に対して本人がどのように働きかけていくか、つまり、本人自らのモチベーションと環境とのミスマッチが生じれば、お互いに不幸である。
しかし、自分にとって100%好都合な環境など、最初からあるはずがない。逆にどんなに不都合な環境であろうと、自らの働きかけ如何によってはどうにでも変わるのが環境である。
そのためには、個人としては次のような考え方をもって、仕事環境と向き合うべきではないかと考える。
(1)自己を支えてくれている環境は、周りの人のあらゆる縁によって存在しているということ。
(2)仕事を成し遂げるために必要な知識や経験は、その環境の風土ともに学ばなければ価値を生み出すことができないということ。
(3)すべてを自己責任で捉えることができないと、自己成長に必要な自らの動機付け(やる気)は、いつまでも生まれてこないということ。
 仕事とは、自分と社会との良好な関係性を結んでくれる“架け橋”である。不用意に破壊してしまっては、取り返しがつかないこととなろう。