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考える言葉

 

信 頼

 
2003年11月10日(月)

 ある社長から、こんな疑問を投げかけられた。「人を信頼するということは、どんなことだろうか?」
 これは、難題である。何故ならば、人を信頼することの大切さは誰もが認識するところである。だが、「信頼って何だろう?」という疑問には、信頼していた相手の裏切り行為へのやるせない気持ちであったり、人を見る目がない自分への不甲斐なさであったり、そんな相手でも憎んだりせず、許すべきなのかという人道的、宗教的な悩みまで含まれてのことだからである。
 つまり、“信頼”に対する疑問のレベルがどこにあるのかで、“信頼”というテーマについて考える内容も変わってくるだろうし、その定義も当然ながら変わるであろう。
 ただ、明らかなことは、“信頼”は人間関係の根本を為すべき問題であることはいうまでもない。それ故に、人間関係を重視しようとする組織のトップにとっては、避けては通れないのが信頼関係の問題であろう。
 “信頼”とは、相手を信じて頼ることであり、謂わば、ある意味では、自分の人生をゆだねる覚悟そのものである。つまり、“信頼”とは、自分の決心なのである。
 しかし、私たちはどのような尺度で相手への信頼を測っているのか。自らの尺度にどれだけの信念を持ち得ているだろうか。その尺度の正しさをどのようにして検証し、フィードバックしているだろうか。
 私たちは多くの人に出逢い、様々な人の生き様を見て来ている。小説やドラマなどでは、それこそ様々な人間像を浮き彫りにして見せてくれる。洞察すべき大切なことは、その言動の背景にある“価値観”ではないだろうか。
 “価値観”は、その人の性格形成、モチベーション、志に強い影響を及ぼしているという事実に、私たちはもっと注意を払うべきであろう。
 価値観には様々なレベルが存在していると言われている。自己中心的で、自分本位な考え方しかできないような低いレベルの価値観の人は、自分と他人を決して同化できない人だから、信頼してはいけない。そのような人は、利害得失が顕著になると必ず自分の利益を優先し、他人を裏切ってしまうのである。
 それから、人間関係には作用反作用の法則が働いていることも見逃すことはできないだろう。自らの価値観の一瞬の迷いが、信頼すべきではない人を引き寄せてしまうことだってある。
 信頼関係の良し悪しは、お互いの価値観のレベルの高低によって決定付けられると考えてよいだろう。