2003年11月17日(月)
私たちは、それが意識的であろうとなかろうと何らかの選択を行い、生きている。その意味において、人生は、自からの選択の連続であり、そのプロセスである。当然ながら、その選択の帰結は、自らが負うことになる。
選択とは、「本来、自己の意図的な決断である」と考える。そして、誰もが意識的には、自分にとって好ましい結果が得られる選択をするに違いない。しかし、自らの選択の帰結である現実に戸惑い、不満をつのらせ、落胆する。
「人生って、不可解なことが多い」と苦悩する日々を送る。何故、このようなギャップが生じるのであろうか?原因は大きく二つあると考える。
(1) 一つは、「選択が自らの意図である」とするならば、その意図を支配している自らの価値観に問題があるといえる。
その価値観のレベルが低く、自分本位な意図しか導くことができないとすれば、その選択は周囲からボイコットされるであろうし、自己の欲求を満たすために反社会的な選択をしてしまい、誘惑の罠に陥ることになる。
(2) もう一つ考えられる要因としては、無目的に生きているために、無意識な選択をしてしまっているのではないだろうか。
つまり、生まれ持った性格、身についた習慣あるいは外部環境の情勢に流されてしまい、結果を認識しないまま、選択をしてしまっているのではないだろうか。
目標管理の実践は、自らの選択の具現化であると思うが、「選択~実践~検証」のプロセス管理の全行程において、個人の意識レベルの差が歴然としているから興味深い。やはり、選択(目標設定)の段階がもっとも重要で、目標に負けてしまっている人間は、負けて然るべき意図の選択がなされている。検証の段階になると、自らの目標が達成できなかった原因すら、曖昧である。これでは、フィードバックもできず、足踏み状態が続く。
理由は、明確である。価値観が低いため、個人目標が組織への貢献とつながっておらず、孤立しているのである。さらに、目的意識の欠如から、自ら掲げた目標であるにもかかわらず、その達成の必然性が認識できていないのである。
これでは、責任ある選択はできないだろうから、結果に対しても無責任にならざるを得ないだろう。
私たちは、「人生は、選択の連続であり、その選択の帰結は自らが負う」、その意味するところを考えてみる価値はあると思う。
いつも清々しい選択ができるような価値観と人生の目的を身につけたいと考える。