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考える言葉

 

対立

 
2004年02月02日(月)

 私たちは、日常的に、様々な対立や衝突をひき起こしながら生きている。それは、あたかも対立や衝突においてしか自己の存在を確認できないという、アイデンティティを喪失した現代人の苛立ちなのかも知れない。
 S・ハンチントン教授の「文明の衝突」は、文明の対立と統合をキーワードに、冷戦後の国際情勢を予測した名著であるが、その中で、「対立」ということについて、次のように述べている。
 「人は自分が誰と異なっているかを知ってはじめて、またしばしば自分が誰と敵対しているかを知ってはじめて、自分が何者であるかを知るのである」
 この言葉は、「自分自身を知る」ための絶対的な真理とはいえない(マズローのいう“自己実現の欲求”レベルにおいて・・・・・)が、私も含めて大方の人にとって納得できる事実ではないだろうか。
 共通の敵を想定することによって団結ができるように、私たちの職場においても同様なことがある。上司への不満を肴に一杯やって、慰め合っている人間は、お互いに部下という同じ立場にいるからこそ分かり合える想いを、共有することによって連帯感を強め、自己の存在を主張しているのである。
 確かに、対立する存在が自己認識への目覚めを促してくれるのは事実だが、自己主張にばかり捉われていては、自己の本質を見失ってしまうことが多い。というのは、自分の立っている場所からは絶対見ることができない、すなわち“死角”が必ず存在するからである。
 いったん、対立関係に進むと、お互いの違いばかりに目がいくが、本来、対立しているものは、コインの裏表のように密接な関係があり、相互に依存している関係のほうが多いのである。
 対立が生じるこということは、必ずそこに変化が生じている。それが上下の関係であったならば、部下の成長がその変化の原因かもしれない。対立が生じなければ、気づくことができないことに気づかされるのは、新たなる次元の関係性を再構築するチャンスではないだろうか。
 このように考えてみると、「対立」とは、お互いが密接な関係にある証しであり、それぞれの存在の価値を再確認し合い、より次元の高い関係を構築するチャンスであると意義付けることができないだろうか。
 「対立」を恐れず、本音で対話ができるような、そんな風土を創っていきたいと考える。そうでないと、実行の企業文化も育たないであろう。