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考える言葉

 

テーマ

 
2004年05月24日(月)

 映画でも小説でもそうだが、途中で飽きがくるものと、どんどん引き込まれていくものとがある。その差が、どこから生まれるのか・・・。
 終わってみて気付くのだが、それは“テーマ”の差だと思う。いつも感じることは、“テーマ”がしっかりしていると内容にぶれがなく、展開にもテンポがあって、最後まで飽きがこない。ストーリーに、一本に筋が通っている。つまり、制作者の意図を感じとれて、楽しいのである。
 “テーマ”の背景には、その人の問題意識がある。そして、その問題意識とは、その人の思想性や価値観あるいは欲求のレベルが確実に反映されているのではないかと考える。
となると、それを受け取る側(小説でいうと読者になるが・・・)のレベルと、それとの一致あるいは不一致が当然ながら生じてくるわけである。そうなると、私は私の問題意識のレベルにおいて、そのことへの関心の度合いを示しているのであろうか。
 それだけではない。必ずしも、私自身の内面における問題意識ではないが、その時代の価値観を反映させている“テーマ”に関心を示していることもある。それは、その影響を私自身が受けていることを意味しているのであるが、そんな時に、当たりはずれが多い。
 先ほど、「“テーマ”がしっかりしていると・・・」といったが、「“テーマ”を捉える目がしっかりしていると・・・」と言い換えたい。つまり、“テーマ”を捉える目が、その本質を捉えていると内容が濃く、引き込まれて、飽きがこないのである。
 “テーマ”を捉える目の確かさに、その人の思想性の高さ、価値観の高さがあるのではないかと考える。物事の真理を捉える確かさであるといえよう。
 変化の激しい環境のなかで、企業は日替わりメニューのごとく、日々“テーマ(課題)”と向き合っているが、大切なのは“テーマ”を捉える目の確かさである。現象に惑わされることなく、その現象の奥に潜んでいる本質、つまり、根本要因を捉えてこそ、チャレンジに値する“テーマ”を“テーマ”にできるのである。
 恐らく、そのような“テーマ”だったら、誰もが引き込まれ、組織が一丸となって取り組んでいくのではないだろうか。
 選び取った“テーマ”が、時代を動かす機軸をなすものであり、そのシナリオが本質を見抜いたものであれば、戦略と戦術にぶれは生じないし、やる気を引き起こす。
 そのような洞察眼は、その人の思想性の反映でしかない。とにかく、自らを奮い立たせる“テーマ”が必要な時代である。