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考える言葉

 

 
2004年05月31日(月)

 旬とは、元来、旬政といって政(まつりごと)の区切りの儀式みたいな意味があったらしく、平安時代の中頃は4月(孟夏)と10月(孟冬)に行われたらしく、行政の「年度」が4月から始まるのは、その名残らしい。
 今は、花の見ごろ、旬の味覚とかいって、「今が、旬ですよ・・・」というのは、何かをやるに最も適した時期をいう。
 今は人為的になりすぎて、食べ物などはいつでも、どこでも手に入るし、旬の見極めが難しい。何かを見損なったとしても、ビデオであとから見られる。その時でなくても、いつでも自分の都合で、やれてしまうのである。
 旬の感覚が麻痺してしまう文化というのは、何か恐ろしいような気がしてならない。何が恐ろしいかというと、「いつでも自分の都合がよいときに、やればいい」と考えているような人間が、今というその瞬時を大切に生きようとするだろうか。
 恐らく、その時々に必要な大切な決断をせずに、「取り敢えずは、こんな具合でいいのではないか」と妥協的な生き方をしてしまうであろう。こんな感覚で生きてきた人間が本気になれるはずかない。
 中途半端なことばかりしていることは、本人がいちばん良く知っている。だから、自分に自信がもてないのである。これが、恐ろしいと思う。
 34歳になる男性を面接した。大学を出て、職場を転々としているので、その理由をきくと、「もっと他に、自分を活かせるところがあるのではないか」と考えていたら、そうなったそうだ。
 同情を禁じえないが、旬の感覚を失った人間の典型をみているようだった。大学を卒業する時が、就職にとって第一の旬である。それを逃さないためには、もっとはやい時期に準備しておく必要があったのである。ところが、彼には旬という認識が全くといってよいほど、欠けているのである。
 「今やらずに、いつするのだ」、この感覚が“旬”なのである。この認識に自分の都合が介入する余地など、微塵もないのである。だから、旬を生きようとすると、それなりの覚悟が必要になる。
 「誰かがやるだろう・・・」ではなく、「自分がやらねば、誰がやる」という自覚。そして、旬を逃さない心構え、「今やらずして、いつするのだ」。
 われわれ一人ひとりに、その覚悟ができたとき、「実行力が、企業文化となる」であろう。
 実行しなければ、“旬”を味合うことはできない。