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考える言葉

 

「けれども」

 
2004年06月28日(月)

 私たちが日頃、何気なく使っている「・・・けれども」、「・・・だが」、「しかしながら・・・」などは、矛盾関係をあらわす接続・助詞である。
 このようなテーマが頭に浮かんだのは、セミナーのあとの質疑応答でよく出くわす質問パターンであり、気になっていたからである。顧客からの相談でも、よくあるパターンである。
 対話の中で、「けれども」をお互いがやりだすと平行線をたどり、埒が明かなくなることが多いが、「けれども」にもいくつかのパターンがある。
 一つには、お互いの意見が完全に対立関係にある場合である。
 これは、自民党と共産党の議論のようなもので、立場の違いがはっきりしており、お互いの根本をなしている価値観を認識し合えない限り、反対のための反対に終始するだろう。
 二つには、相手の意見に今一つ確信を持てない場合である。
 相手の意見を聞いて、言っていることは分かるし、自分もそうすべきだと考えているのだが、何か腑に落ちないところがあって覚悟を決めかねているといった状態だろうか。
 三つには、優柔不断で自分の考えを持ちえていないか、あるいは逆に謙虚に相手の間違いを促している場合である。
 このような人は、「いいと思いますけれども、・・・・・」と自分の意見をいわず、相手の次の反応を待つ。
 いずれのパターンにおいてもいえることは、「けれども」が矛盾関係をあらわす接続・助詞である以上は、矛盾の決着がついていないわけだから、その理由を探ることには意味があるのではないかと考える。
 それは、①立場の違いが引き起こしている矛盾関係なのか、それとも②目的と手段のいずれにおいて生じているのか、あるいは③それらを取り違えたためなのか、④全体と部分との関係において生じたことなのか、⑤単に優柔不断な態度においてなのか。
 自分の思考の中で繰り返される「・・・けれども、・・・」もある。いや、よくよく考えると、他との関係においてよりも自分との関係においての「けれども」のほうが多いし、自己矛盾を引きずったままである。
 「善を知るけれども、善行ができない」、「悪いと分っているけれど、やめられない」「・・・けれども、・・・」を使う自分を意識しようと考える。