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考える言葉

 

厳と寛

 
2004年07月05日(月)

 今日は、“厳と寛”について考えてみたい。三国志に出てくる有名な言葉で、「泣いて馬謖を斬る」というのがある。軍法に背いて、大敗を喫した馬謖を敢えて処刑するシーンである。
 馬謖は才気溢れた人材だったようで、孔明は自分の後継者にしようと思い、大変可愛がっていたようだ。惜しむべき者であればこそ、処刑して軍律を正さなければならないと、泣く泣く決断をしたという。
 しかし、劉備は臨終のさいに「馬謖は、口先だけで身が伴わないやつだから、大事に使うことを避けるように・・・」と孔明に告げたそうだから、人を見る目は劉備のほうが上であったのだろう。
 人は上に立つと、否応がなしに他人(ひと)の責任を問わざるを得ないときがある。組織のルールなどを破り、また、信頼をなくすような行為をした者を、どう処したらよいのか。つまり、どこまで厳しくあるべきか、あるいはどこまで寛容あるべきか。このバランスに悩む経営者は多いのではないかと思う。
 “厳か、寛か”。その人の性格や考え方などが反映されるのだろう。どちらかに片寄っていることが多いように見受けられる。つまり、厳しい人はいつも厳しいし、寛容な人はいつも寛容である。もちろん、中には気分屋さんもいる。
 “厳”が過ぎると過剰反応して委縮してしまうだろうし、“寛”が過ぎると無責任な人間が出てきて組織のタガが弛んでしまう。いずれにしても、片寄りが過ぎると組織の風土に悪しき影響を及ぼしているようだ。
 上に立つ人は「自分には常に厳しく、他人にはできる限り寛容であるべきだ」ということが言われるが、全てが上司の責任であるという考えに立つと当然だと思うし、また、自己を磨くためにも大切な心得だと考える。
 問題は、どうしても厳しく処さねばならない者に対しての“厳と寛”の見極めであろう。先ずは、情に流されるようなことがあってはならないだろう。それから、処する側においての打算があってはならないと考える。さらに大切なことは、その者の価値観のレベルをよく見極めることだろう。
 他人の寛容さに対して感謝することができず、増長し、自らの反省をなさないような者は必ず同じことを繰り返すであろう。だから、許してはならない。恩を仇で返すような人間である。
 要するに、自らの信念(価値観)を培い、人を観る目を養わないと、“厳と寛”のバランスは難しいということだろうか。