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考える言葉

 

 
2004年08月02日(月)

 信頼関係を損なう行為の一つに“嘘”がある。そして、あってはならないはずなのに、ありがちなのが“嘘”をつくことではないだろうか。
 「嘘も方便」という言葉があるが、そんな価値ある嘘をつける人はお釈迦様以外にはいないであろうから、はやり、嘘をつくことを正当化するわけにはいかないと考える。
 ひと頃は、嘘は政治家の特権みたいに言われていたが、最近は企業ぐるみあるいは組織ぐるみの嘘がマスコミを賑わせている。もちろん、私も含めて個人の嘘は日常の中に常に蔓延している。
 小さい頃から、「嘘をつくことは、良くないことだ」と教えられてきたにもかかわらず、人は何故、嘘をつくのだろうか?
(1)冗談交じりの嘘
(2) 煩わしくなってつく嘘
(3)  自分や親しい人を庇うための嘘
(4) 他人を陥れようとする嘘
 いろいろと理由は考えられるが、日常的には③の防御的な嘘を、しかも咄嗟につくことが多いと思われる。理由はどうであれ、嘘は一度つくと、「嘘の上塗り」といって取り返しつかない状況に追い込まれてしまうことになる。
 嘘が何故、良くないのか?それは、動機が何であろうと、嘘をつくことによって真実にフタをしてしまい、現実を歪めてしまうことになる。さらに、歪められた現実によって人の心が歪められることになろう。誰かがついた嘘によって、不信感がひろがり、人間関係が浮き足立ってしまうことがある。
 嘘が何故、良くないのか?何よりもまして、それが自らの良心に恥じる行為だからである。過去に不用意についた嘘が、今でも心に重たくのしかかっているってことがないだろうか。あるとすれば、それは良心の呵責であろう。
 悔い改める心はあっても、嘘であったことを、なかなか公言できない。だから、それが引け目になる。そんなこんなで、他人の嘘にも甘くになる。そんな気持ちでは、大義も貫けないであろう。それ故に、嘘は良くないのである。
 つい軽い気持ちでついてしまい、あとからドシッと、心に重くのしかかるのが“嘘”である。
 こんな重いものを持ち歩いていて、心のフットワークが良いはずがない。人生やりたいことが、たくさんある。だから、良心に恥じる“嘘”はつきたくないと考える。