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考える言葉

 

焦燥感(あせり)

 
1999年12月06日(月)

 人生において、焦りを経験したことがないと言う人は先ずいないだろう。過去を振り返っても、喜怒哀楽の場面は直ぐに思い出すことはできなくても、「あの時はホントに焦ったよ」という場面はけっこう記憶に残っていることが多い。よく考えてみると、喜怒哀楽という感情は焦りという心の状態の結末だと言えなくもない。

 ドイツの哲学者ニーチェ(1844~1900)が“焦り”について次のようなことを語っている。「多くのいわゆる凡人の人生に差が生じるとすれば、その原因は“焦り”にある」つまり、“人生の成功者に成りたければ決して焦らないことである”と教えている。

 私は、ある意味において「生きているということは常に焦りを感じている」ということのような気がしてならない。私の中にある焦りの感情は、常に時間的な制約との戦いから生じていると言える。過ぎ去った時間への焦り、残された時間への焦り。「あと少し時間があれば…。もし時間を止めることが出来れば…・」と、過去において何度叫んだことか。

 この時間から生じる強迫観念を克服することが出来なければ、私たち人間は“焦り”という感情から逃れられないのではないだろうか。

 ニーチェは次のようなことも語っている。「偉大な人物とは進むべき進路、その方向性を定めることができる人を指すのである」そして、ヘーゲルは「人間は価値ある目的を持ったその時から、その人の人生のあらゆる出逢いが価値あるものになっていくのである」と述べている。

 ここで良く考えてみたい。時間に対する強迫観念から生じる“焦り”と言う感情と自分の人生に価値ある目的(進路、方向性)を描き切れないでいると言うことは、大変密接な関係にあると言えないだろうか。目的を特定出来ないまま生きてきた無駄の多いジグザグ人生。目的を描き切れないならば、恐らく未来に向かっても惰性で流されてしまうであろう。

 無駄が多いから人生は面白いんだという声が聞こえてくる。しかし、これからは無駄を許してくれない時代を生き抜いていかねばならないのだろう。「焦りに翻弄されない人生、それは価値ある目的を定めることが出来た人生」だといえるのではないだろうか。

 私も最近少しであるが、目的の持つ不思議な力を感じつつある。