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考える言葉

 

人物評

 
1999年12月13日(月)

 「貞観政要」は、名君の誉れ高い唐の太宗 (李政民・在位626~649年)とそれを補佐した名臣たちとの政治問答集であり、古来、帝王学の書として長く愛読されてきたと言う。房玄齢、杜如海、魏徴、王桂など多くの名臣らが李世民に仕え「貞観の治」と言われる理想の国家が実現した。多士済々であったからであろう、あるとき、太宗のご前で側近達が人物論を戦わせたときのこと、王珪は他の人物と自分を比較しながら次のように語ったと言う。

 「真剣に国家に奉仕し、知れば必ず実行する点では、自分は房玄齢に及ばない。いつも諫言を心がけ、自分の仕える天子が聖天子の尭、舜に及ばないことを恥じている点では、魏徴に及ばない。才能は文武を兼ね、出でては将軍となり入りては宰相の任を果たす点にかけては 李靖に及ばない。上奏が微に入り細をうがち、下の言を上にとりつぎ、上の言を下に流す手際のよさにかけては、温彦博に及ばない。劇職にありながら、仕事を効果的に処理する点にかけては 戴冑に及ばない。しかしながら、かく言う私にも、これらの人にまさる長所があります。それは、ほかでもない、悪を憎み、善を好む点であります」  (「貞観政要」守屋洋訳)

 本の引用が大変長くなってしまったが、日頃から人物を評価することの難しさを感じていた私にとって王珪が行なった人物評価の手際の良さに舌をまくと同時に考えさせられた。王珪という人は、こんな人物ではなかっただろうか。

1)常に自己客観化ができている人(思想の高さ)
2)人生の師を常に求めている人(尊敬の念)
3)好奇心が旺盛で、人間好きな人(愛情)

 人物評価、人を見る目を養っておくことは、これからの時代、経営者にとって大変重要なことではないだろうか。