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考える言葉

 

心在らず

 
2000年11月20日(月)

 「忙」の字は、「心が亡くなった」状態の字形らしい。

 人間は、忙しすぎたり、急ぎすぎたりすると普段では考えられないようなミス(過ち、失敗)を犯すことがある。
「どうして、そんなことをしたのか」と問うても、原因がハッキリしない。言うなれば、「忙しすぎたからとしか言い様がない」と言うことになる。
「忙しすぎたのだ」とよく慰めの言葉として使われたりするが、私は納得できない。この一言で片付けられてしまうと、ミスの再発は必至だからである。

 私たちビジネスマンは、ビジー(忙しい)であって当たり前。多忙にも関わらず、段取り良く仕事をこなし、成果を出してこそ一人前の仕事師(プロ)といえるのではないか。
つまり、「忙しさ」をミスの原因にしていたのでは、プロしての成長は期待出来ないであろう。

 私の経験でも、忙しい時期を振り返ると必ず成長の跡を覗うことができる。何故かと言うと、今まで通りのやり方では到底できないことをやり遂げるには、自らの創意・工夫がどうしても必要となるからである。要するに、主体性や自主性を養う絶好のチャンスとなり得るのである。

 考えるに、「忙しさ」が仕事のミスを誘発するのではなく、根本要因は「仕事に取組む姿勢」にあるような気がする。
つまり、「受身で仕事をしている」人間が、忙しくなると冒頭のように「心を亡くした」状態となり、ミスを犯してしまうのではないか。
 「身体は仕事場にいるが、心はそこにあらず」である。身体だけで仕事をして、「心が不在」なのだ。身体だけで仕事をしていては、疲れも一段と酷くなる。それでは、ミスが生じて当然。

 「受身で仕事をしている」人間の根底には、必ず依存心が何処かに潜んでいる。言葉を変えていうと、自己責任で物事を考えようとしない“無責任さ”が存在している。
もっと現実を直視し、主体的に悩めば何とかなるはずなのに、つい逃げてしまう。逃げるから、仕事に追われる悪循環に陥り、「心を亡くす」といった忙しさに嵌まってしまう。

 「心を見失う」ということは、目的を見失っていることである。“何のために”仕事をしているのか、自らに問いかけ、主体的・自主的に“多忙さ(プロ・ビジネス)”にチャレンジしたいと思う。

 もう受身で仕事をしていて成果が出るような甘い時代はニ度と来ないであろう。