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考える言葉

 

原因を問う

 
2001年10月29日(月)

 どちらかと言うと私たちは、何かが起きたとき、「どうしたら良いのか」と“その対処の方法”に意識がいく。つまり、ハウツー的解決に走ってしまう。
 しかし、これは対処療法を繰り返すだけで何ら根本解決にならないことに、私たちはやっと気付き始めたのではないか。
 本屋さんの店頭で“ハウツー本”を見かけなくなった。要は、売れなくなったのである。今日ほど変化とそのスピードが激しいと、目の前に起きている問題を現象的にのみに捉えて、ハウツー的解決を図ろうとしても、まさに“モグラたたき”をしているようなものだ。
 結果には必ず“原因”がある。あらゆる現象は何らかの結果であるから、そこに必ず原因がある。
 私たちは今、この「原因を問う(何故?)」ことから問題解決をはじめることが大切ではないかと考える。
 私は、「原因を問う」と言うことは物事の本質(根本)を探ることだと考えている。
 「このような結果は、いかなる原因から生じたのか?」を徹底究明することによって、問題解決できるならば、次のようなことが言えるではないか。
 「どのような原因を準備することによって、私たちは自分の望む結果を得ることができるか」を考えることができる。
 結果の良否とは、自分の望んでいた結果を得ることができたかどうかで判断されるのであるから、当然のことながら、スタート時点において“望むべき結果のイメージ(未来の姿・目的)が明確でないといけない。
そうでないと、“差異”が特定できないし、真の原因を浮き彫りにすることができないのである。
 要するに、原因を徹底して追求する“原因思考”は、究極のところ、“目的思考”であり“未来思考”であるといえよう。
 このように考えると、何かが起ってから対処するハウツー的な解決が、根本的な解決に到らず、同じ過ちを繰り返す意味がよく理解できる。自らの目的を特定しないまま、“場当たり的”に生きているのであるから、原因を自分の中に特定することができないである。
 「原因を正しく問う」ことができなければ、「結果のイメージを正しく描く」ことはできないのであって、出たとこ勝負の人生を送らざるをえない。
 この悪循環を絶つためにも、「原因を問う(何故?)」という考え方を身につけるべきだと思う。