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考える言葉

 

人を裁く

 
2002年11月11日(月)

 「自分に、人を裁く権限などあるのだろうか?」と自問せざるを得ない状況に身をおくことが暫しある。それは仕事に限ったことではないが・・・。
 私の亡父は裁判官だったが、かつて訊いたことがある。
「人間に、人を裁く権利があるのか」と、親父応えていわく「無いだろう」と。「じゃ、裁判官はなぜ、人を裁くのか?」、「仕事だからね」・・・・・。親父の応えは、単純そのものだった。
 親父の友人(税理士)だった人から、生前のエピソードを訊いたことがある。
親父は大変な読書家で、確かに“文芸春秋”は愛読していたのであるが・・・。通勤の列車で一緒になったときに、話もそこそこに“文芸春秋”を読み始めるのを見て「裁判官の仕事と小説は関係ないだろう?」というと、「小説家は、時代を観る目が確かだからね」と応えたという。
 「人を法で裁く前に、人が犯す罪の背景にあるものは何かを見極めたい」という信念からだろう。「君の親父さんとは、背負っている“仕事の重さ”が違う」と感じたという。「君にも、そういう税理士になって欲しい」とアドバイスを頂いた。
 作家の安部譲二氏が、次のようなエピソードを述べている。
亡きコラムニスト山本夏彦氏は、「山本夏彦はなんであんなゴロツキを弟子にしたんだ」という人からの批判に、「私は安部の文章を見て、前科を見ない」と叫んでくれたそうで、それを人づてに聞き、感動して泣きじゃくったという。(週刊朝日)
 人の行為をどのように評価するのか。捉える視点を変えれば、どのようにでも変わるから難しいし、安易に流されてしまうと取り返しがつかなくなるわけで恐ろしい。
 しかしながら、私たちは日常的に人を安易に裁いてしまっていないだろうか?それは常識に反するという理由で、ある時には組織のルールを盾にとって、ある時には個人的な感情ですら裁く理由になっていないだろうか。
 立場上、心ならずも友人や部下を捨てざるをえないとき、「泣いて馬謖を斬る」と格好をつけるが、孔明の背負った重さを本当に分かっているのだろうか。
 難しい時代に生きている私たちは、これから人間関係において様々な局面に遭遇するだろう。そして、人に対して判断し、評価し、法やルールに限らず何らかの裁きをせざるを得ないときがある。
 大切なことは、人を裁くことを急ぐのではなく、自らの価値判断に“私心”はないかを問うことだろう。そして何よりも、自らを律して生きているか普段から厳しく自省することにある。
 そのためにも、私たちは人間学を正しく学ぶ必要があると考える。