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考える言葉

 

見識

 
2000年09月04日(月)

今、組織リーダーの見識が問われることが多い。見定めが難しい経済環境の所為もあろう。

 見識とは、物事の本質を見極めることができるしっかりとした考えであって、人間の度量(器)を形成する大切な要素ではないかと考えられる。

 「今の日本人にとって、この見識を養うことが大変重要である」と多くの識者から指摘されているが、今日の日本にとって決して容易なことではないだろう。

 戦後、アメリカのシナリオに乗って知識偏重の教育を徹底。それがあらゆる分野に能力的人材を輩出し、日本経済復興の大きな要因となったことは既成の事実として理解できる。しかし、片寄りは必ず弊害を伴うものである。

 私たちはやっと今になって、知識や経験をいくら積み重ねても、それだけではその人に高い見識が身に付くわけではないことに気付き始めた。既に敷かれているレールの上をうまく走るために機能した能力が、壊れたレールを再構築し、新たに敷こうとしたときに全く無力であったことに驚かされる。

 では、どうして知識偏重の能力的人材には、見識の備わった器の大きい人がいないのだろうか。
その一因として考えられることは、知識の豊富な人間は目先の利害得失を捉えることが上手く、つい刹那的なソロバンをはじいてしまい、結果、短絡的になってしまうのではないか。つまり、器用過ぎて、考えが深まらない。

 私たち人間には、「物事を長い目で、多面的に、根本を捉えて考える力」、つまり優れた思考力が備わっている。

 これからの時代はさらに複雑化して行くのだろう。企業は、混沌の中を勝ち残っていくために、さらにオリジナルな創造性を追及せざるを得ない。
オリジナルな創造性とは、「何のために」という目的を常に自らに問い、その達成に必要なあらゆる関係性を徹底して考え抜くことから生まれる、つまり思考の産物なのである。

 新しい価値を創造することに積極果敢にチャレンジする、そんな思考のプロセスを通して生まれる智慧の積み重ねにおいて、いわゆる“見識”というものが培われるのではないだろうか。

 人物学の権威として知られた安岡正篤翁は「見識をさらに胆識まで高めよ」と説いたと言う。

 「思考は行動である」(経営人間学)という教えと相通ずる見識ではなかろうか。思考の奥は限りなく深い。