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考える言葉

 

発憤(発奮)

 
2002年12月16日(月)

 人間、逆境に立たされると明暗が分かれる。一つは、逆境を機に奮い立って新たな成長をつかむ人と、あと一つは、なす術も知らず落ちていく人である。
 以前、私たちは良く、「あの人間は、打たれ強い」と言ったものだ。
とにかく、転んでも転んでも起き上がってくる。グループの中に、そういう人間が必ず一人はいて、その人間に奮い立たされて、あきらめそうになったことをやり抜いたという経験をけっこう持っていたものだ。
とにかく、そういう人間をみていると、どんなに些細な条件でも自らを奮い立たす発憤の材料にしてしまうのである。野球でいうと、「ドンマイ、ドンマイ」のわけで、「ドントマインド」の精神が徹底している。
単に、負けず嫌いなだけだったのか定かではないが、不思議とその人間がいるだけで形勢が逆転してしまうのである。それ以上の何かが明らかに働いていたのであろう。成長過程において、そのような経験を積んできたことはラッキーなことであり、意義がある。
要するに、逆境に立たされたときに、その状況をどう見ているのかの“差”であろう。
自分自身に対する信頼の強さが一つは大切であろう。それは、スポーツでいうと勝つことに対する執念の差であるかもしれない。
 先だって、事務所の合宿をしたときに気付いたことであるが、自ら掲げた目標に対する執念が弱いような気がした。目標管理を行なっているのにも関わらず、どこか横並び意識になってしまっていて、自らを発憤させる材料になっていなかったのではないかと、反省をさせられた。
 目標の意味すらしっかりと考えずにやってきたのかも知れない。目標とは、自己を成長させるために自らがつくった壁(障害)である。だから、それから逃れようとすることは自分を裏切っているのであって、恥ずべき行為である。
 故に、目標は自らを発憤させるような内容でないといけないし、仮にその目標から目を背けるようなことがあったならば、真剣に恥じるべきだし、その恥ずべき行為を発憤の材料にして、奮い立つことが大切である。まさに、「廉恥を重んじ、元気を奮う」である。
 逆境も同じである。自らが準備した環境だと受け止め、発憤の材料にすべきことであろう。
 元気がない日本、この逆境こそ奮い立つチャンスだと考えるべきであろう。今、必要なことは発憤することではないか。