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考える言葉

 

公と私

 
2003年01月27日(月)

 今年も恒例の全国経営者大会(於:東京帝国ホテル)に参加した。
 そのプログラムの一つ“新春特別対談”「日本の心を取り戻せ~このままでは日本は滅びる!」(松本健一氏と櫻井よしこ氏)の内容について、松本氏(麗澤大学教授、思想家、評論家、作家)の発言で興味がもてた部分を紹介したい。
 氏によると、混迷の続く日本は今、第三の開国の時期を迎えているという。そして、それは“官僚独裁”体制を解体し、開くことである。
 官僚主義は、先例に伴う行動様式であるから、過去のデータを分析し、先例を頭に叩き込んでマネジメントする手法は優れているが、まったく先例がない時代において国家デザインをどのように描くのかとか、どのようなヴィジョンを描くかという発想は持ちえていない、ここに今日的混迷の大きな問題がある。
 第一の開国(武士独裁)のときは、武士自身が自己の権益を捨てて体制解体へ動いた、第二の開国(軍人独裁)のときはアメリカ主導の民主化がなされた。第三の開国の担い手は誰なのか。
 戦後の日本教育は、個人(私)の尊重に偏りすぎて、日本人の心の中に“ネーション”(民族・国家・国民)といった概念がない。
 「私」という字は、収穫を意味する「禾偏」に「ム」と書く。「ム」は、ヒジを立てた状態で、人をはねのけて独り占めにする意味である。つまり、「私」とは収穫を独り占めすることを意味している。「公」という字は、「ム」に「八」と書き、「ム」の状態を開いていくことである。
 仕事とは本来、世のために仕えることを意味するのである。その意味においていうなれば、仕事を創り出す企業とは“公”である必要があるし、そこで働く企業人(私)は、公人としての自覚をもっておらねばならないのでないだろうか。
 このようなことを考えてみると、第三の開国の担い手は「公的」自覚に目覚めた企業あるいは企業人ではないだろうか。
 幸いなことに、先例にとらわれることなく、つねに変化に適応できるように自己革新をやり続けてきた企業あるいは企業人は、官僚と違い、先例がなくとも自分の頭でヴィジョンを想い描くことができる。
 一つ欠けているとすれば、目先の利益に惑わされて、私利私欲に走ってしまうことであろう。
 私たち企業人は今こそ、心の中に“ネーション”を想い描き、“私”も含まれた“公”の概念へ場所を開いていきたいと考える。