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考える言葉

 

千里眼

 
2003年04月07日(月)

 友人の薦めで読んだ「孟嘗君」(宮城谷昌光著)に、次のような一節がある。
 ・・・・・「毛笛、なんじの目でも千里さきの影はみえぬか」と、笑いながらいった。超人的な視力をもった毛笛はまじめな顔を田文にむけた。「文子、千里のさきをみるのは、心の目です」「なるほど、なんじの目がすぐれているのは、いまわかった」・・・・・。
 田文とは、のちの孟嘗君のことで、事情があって生き別れとなった妻子を探す旅の途中でのくだりである。
 孟嘗君は、毛笛のこの言葉で、千里眼とは心の目でみることだと分かり、心のなかで妻子の影をうしなってはならない、その影を見失わないかぎり、必ず求めるものは、その影と合致するように目の前に出現するものだと、悟るのである。
 今日における多くの経営者の悩みは、先行きの不透明感にあるといってよいだろう。なかには、まったく見通しが立たないとなげく人もいる。組織の舵取りをすべき立場にあるトップや幹部が、自らの進路の方向性を見定めることができないでいる。
 目先の変化に惑わされ、ものごとの本質を見失っているのだろう。まさに、自らの心のなかに“あるべき姿”の影をうしないかけているのではないだろうか。自らの追い求める影を見失った状況で、方向性を見定めようとしても見通しが立たなくて当然といえば、あまりにも当然過ぎるのではないか。この本を読んでいて、このことを思い知らされた。
 私たちにとって、未来とはあくまでも無限定であるにすぎない。無限定のまま、私たちの眼前に立ちはだかっているのが未来である。明るくも暗くもあるのが未来である。つまり、無限定の未来に限定付けしているのは、私たち自身の“心の定め方”ではないだろうか。
 私どもが定期的に開催している「将軍の日セミナー(中期五ヵ年計画の策定)」の狙いの一つは、ここにあるといえる。つまり、無限定のまま存在している未来に、自らの意思で条件付けをするということである。
 まさに、このことが経営計画を策定する意味と価値の真髄ではないだろうか。それゆえに、その策定を怠るということは、逆に環境の変化に翻弄され、他人に条件付けられて、自らの未来を台無しにしてしまうことを意味していると言えなくもない。
 人間は、苦しみの淵の中から自らのほんとうの理念(あるべき姿)に出逢うともいう。その意味において、今はまさに“千里眼(こころの目)”を得るチャンスである。
 見通しを見失っているのは、環境のせいでは決してない。“こころの目”をうしなっている自分自身のなかにこそ原因があると考えたい。