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考える言葉

 

自己と環境

 
2003年03月31日(月)

先日(28~29日)、事務所の第一四半期の合宿を終えた。
四半期ごとに行う、この合宿は、各人が「検証とフィードバック」をより徹底することによって、次の四半期の“目標管理”の成果を促進させることが狙いである。
“目標管理”は、「人間は、誰でも主体的、自発的に生きることを望んでいる」という人間観を前提として成り立っていると、私は考えている。
だから、この合宿も全員参加で行っているのだが、正直なところ、各人の参加意識にはかなりの温度差がある。
その温度差は、資料作成の準備、発表の仕方、人の発表を聞くときの態度など様々なところに表れているが、根本的なところでいうと“目標管理”そのものに対する認識の差ではないかと思う。自らが掲げたはずの目標に対して、その価値を確信できないでいる人が存在している。
主体性とは、「他人から指示されないでも自分のことは自分でやる」というよりも、もっと積極的な意味がある。それは、環境への働きかけであり、自分の存在が周囲(環境)へどのような影響を及ぼすことができるかということである。
その意味においていうと、目標とはまさに、自分が周囲(環境)へどのような影響を与えようとしている存在なのかを公言することであるといえよう。
そして、自分と周囲(環境)との関係性の意味を深く考えると、自らが掲げる目標の内容がいかにあるべきかが明確になるのではないと考える。
「人間は、目標を掲げることができたときから、大きく成長をしていく」と言われているが、それは“目標”の価値と意味を正しく理解した人についていえることである。
目標とは、「自分がどういう人間になるべきかを考えること」であるが、そのとき、必ず「自己と環境との関係性の中で考えて、作ること」になるのである。
そして、このような内容を吟味して作成された目標は、自己革新を促し、成長を約束してくれるのである。
自ら掲げた目標に対して、その達成に確信を持てていない人、達成意欲が湧いてこない人がいるとすれば、それは多分、「自己と環境」の関係性を十分に考慮することなく、ノルマ的な意味合いで目標を立ててしまっているに違いない。
それ故に、目標管理のために費やすあらゆる時間が、強迫的で、空しいものと感じるのである。
そのような人は、自己と環境を分離したところで考えても、自己の存在の意味と価値は何も見出すことができないことを、先ずは認識すべきではないだろうか。